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方広寺鐘銘事件

豊臣氏は家康の勧めで慶長19年(1614年)4月に方広寺を再建しており、8月3日に大仏殿の開眼供養を行なうことにした。ところが家康は、方広寺の梵鐘の銘文中に不吉な語があると供養を差し止めた。問題とされたのは「国家安康」・「君臣豊楽・子孫殷昌」・「右僕射源朝臣」の部分であった。「国家安康」を「家康の名を分断して呪詛する言葉」とし、「君臣豊楽・子孫殷昌」を豊臣氏を君として子孫の殷昌を楽しむとした。更に「右僕射源朝臣」については、「家康を射るという言葉だ」と非難したのである。こちらは完全な言いがかりであり、「右僕射源朝臣」の本来の意味は、右僕射(右大臣の唐名)源家康という意味である。

さらに8月18日、京都五山の長老たちに鐘銘の解釈を行わせた結果、五山の僧侶たちは家康の影響力を恐れて、「みなこの銘中に国家安康の一句、御名を犯す事尤不敬とすべし。」(徳川実紀)と返答したという。
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これに対して豊臣氏は家老・片桐且元と鐘銘を作成した文英清韓を駿府に派遣し、家康に弁明を試みた。ところが、家康は会見すら拒否し、逆に清韓を拘束し、且元を大坂へ返した。且元は、秀頼の大坂城退去などを提案し妥協を図ったが、豊臣氏は拒否。そして、豊臣氏が9月26日に且元を家康と内通しているとして追放すると、家康は豊臣氏が浪人を集めて軍備を増強していることを理由に、豊臣氏に宣戦布告したのである。

この事件は、豊臣氏攻撃の口実とするため、家康が崇伝,林羅山らと画策して問題化させたものであるとの考え方が一般的であった。しかし、清韓自身が家康の諱を「かくし題」とした意識的な撰文であると弁明しており、上記のとおり、五山の僧の答申はいずれも諱を避けなかったことについて問題視している。当時、基本的に諱で呼ぶ事が出来るのは両親、主君そして敵であり、通常は名字+官職名もしくは通名等で呼び諱で呼ぶことは非常に無礼なことであった事を考えると、家康側が全面的にこじつけたものではなく、豊臣側の軽率な行為が付け入る隙を与えたという性格の方が強い。

その後も鐘は鋳潰されることもなく方広寺境内に残されている(重要文化財)。

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2009年05月29日 08:46に投稿されたエントリーのページです。

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